不可知境界:責任を成立させるための「わからなさの固定」
- kanna qed
- 1月8日
- 読了時間: 6分
1. 冒頭:なぜAIインシデントや業務トラブルは、いつも責任が蒸発するのか
「なぜ、あれほど説明を尽くしたはずのAI事故や業務トラブルにおいて、最後には誰も責任を取れない状態――責任の蒸発――が起きるのでしょうか?」
その理由は、私たちの「説明」のタイミングにあります。多くの組織は、問題が起きた後に懸命に説明を作ります。しかし、結論から言えば、責任は“事後の説明”では生まれません。
判断を下すその瞬間に、「ここから先はわかっていない」という空白を固定しない限り、責任は成立しないのです。この固定された限界線を、私たちは**「不可知境界(Boundary of the Unknowable)」**と呼びます。

2. 定義:未知ではなく「不可知」を固定する
不可知境界とは: 判断の前に、「ここから先は原理的に埋めることができない」と確定させる限界線のこと。
ここで重要なのは、「未知」と「不可知」を峻別することです。
未知: 今は知らないが、後で(データを増やせば)分かること。
不可知: 判断を下すその時点の材料では、どう足掻いても埋めることができない空白。
不可知境界は「宣言」ではなく「記録単位」である: 不可知境界は「言った」だけでは成立しません。境界(X)を含む意思決定は、確実な事実(内側)と空白(境界)を一体のログとして固定した瞬間にのみ成立します。責任とは、この固定された記録を引き受けるという意志の表明です。
重要な補足: Xは免責ではありません。Xを“埋めない”と決めた判断そのものが責任である、という峻厳な事実こそが不可知境界の本質です。
3. 「責任の蒸発」との関係:なぜ後付け説明が責任を殺すのか
なぜ「説明」を増やせば増やすほど責任は消えるのでしょうか。
現象: 事故が起きた後、原因分析として膨大な「説明」が増殖し、結局「仕方がなかった」という結論に落ち着く。
構造: 判断の前に境界(不可知の範囲)が引かれ、記録として固定されていないため、事後にその境界を都合よく書き換え(Ghostの侵入)、あたかも「予測可能だった」あるいは「不可抗力だった」と後講釈が可能になる。
核心: 不可知境界を事前に設けていない意思決定において、責任という概念は最初から成立し得ません。この固定がない意思決定は、事後に判断理由が無限に書き換え可能であり、責任は原理的に崩壊します。
4. 読者が陥りやすい3つの勘違い
「データを増やせば解決する」ではない データが増えても、判断の瞬間に存在する「解釈の余地(空白)」は消えません。
「確率で包めば責任が立つ」ではない 「90%の確率で成功する」という言葉は、残りの10%が起きた時の責任を放棄するための免罪符になりがちです。
「説明責任=説明を上手くすること」ではない 説明責任とは、事後に流暢に語ることではなく、事前に「何を語らないか」を確定させ、記録することです。
不可知境界は“説明技術”ではなく、意思決定の“前提条件”です。
5. 実務チェック:その判断に「不可知境界」は立っているか
あなたの目の前にある判断に、責任を成立させるための境界が立っているか、以下の4つの問に答えてください。
Q1. その“わからなさ”は、データ追加で消える種類か?
YES → それは単なる「未知」です。
NO → 次へ。
Q2. 判断前にその空白を埋めると、後から説明を書き換え可能になるか?
YES → それこそが「不可知境界」を引くべき箇所です。
Q3. 「ズレたら仕方ない」という覚悟を、判断後ではなく判断前に置けているか?
YES → 境界が立っています。
NO → 境界は立っていません。
Q4. 内側A〜Cと境界Xが、改ざん不能な形で記録されているか?
YES → 責任が成立する準備が整いました。
NO → それはまだ「単なる宣言」であり、境界は立っていません。
6. 不可知境界の“具体形”:AI導入における「意思決定の封印」
例えば、AIモデルの導入判断を考えてみましょう。
内側(確実な事実): 学習データの分布、テスト精度、現在のパラメータ、採用基準(どの閾値で導入としたか)。
境界(不可知の空白): 本番環境における未知の入力パターン。
固定: 「本番での未知の入力による挙動は予測不能である」と決定前にログに刻む。
境界を固定しない導入は、事故後に「想定外だった」「運用が悪い」「データが偏っていた」といった言い訳が無限に増殖し、意思決定そのものが事後に別物へ書き換えられます。境界固定とは、この書き換えを物理的(改ざん不能)に禁止する“意思決定の封印”です。
7. 「Ghost」との違い:線か、浸食か
不可知境界: 判断の瞬間に固定する明確な「限界線」。
Ghost: その限界線を無かったことにし、事後に意味や言い訳を侵入させる「線を踏み荒らす後付け」。
不可知境界を記録として封印することで、Ghostが湧き出す隙間を事前に塞ぐことが可能になります。
8. 責任蒸発のトリガー:境界の外を埋めるフレーズ集
以下のような言葉が事後に出た時点で、不可知境界は事前に固定されておらず、責任は蒸発しています。
「当時は合理的だった」
「想定外だった」
「総合的に判断した」
「ベストエフォートでやった」
「結果論ではそう言えるが……」
「データが揃っていれば違ったはずだ」
「確率的には妥当だった」
これらが出たとき、そこには境界ではなく、事後の書き換え(Ghost)が存在しています。
9. 何が変わるのか:不可知境界がもたらす3つの効能
言い訳の増殖停止: 事前に「ここはわからない」と固定しているため、事後の言い訳が封じられる。
責任範囲の確定: 「どこまでが責任か」が、判断を下す瞬間に同期される。
改善の再現性: 「境界の内側(既知)」が何であったかが記録されるため、同じ条件で検証が可能になる。
10. 実装への接続:責任をシステム化する理論
不可知境界は、実務において以下のロジックを成立させるための起点です。
有限閉包: 説明や条件が無限に増殖(Ghost化)するのを閉じる。
Post-hoc Impossibility(事後書き換え不能性): 事故が起きた後に境界を引き直すことを物理的・制度的に禁止する。
ADIC/$\Sigma1$: 境界の内側にある「固定されたログ」だけを証拠として扱う。
11. 実践フォーマット:不可知境界の最小構成
実務でそのまま使える最小テンプレです。これを埋め、記録に残すことが、責任を成立させる実務上の「封印」となります。
項目 | 内容 |
内側(確定できる事実) | A, B, C ...(現在のデータ、前提、ロジック、採用基準・閾値) |
境界(判断前に埋められない空白) | X (例:未知の環境因子、ユーザー行動) |
禁止(後付け説明の禁止事項) | 「想定外」「合理的だった」という言葉でXを埋めない |
引受(ズレた場合の取り扱い) | ズレはX由来として受け入れ、A〜Cの不備以外は言い訳しない。Xを選択した判断そのものを責任として負う。 |
記録(物理的な証拠) | 入力・前提・出力・時刻・責任者署名(ハッシュ化・改ざん不能なログ保存) |
12. 結び:責任は事後に作れない
責任とは、完璧な説明をすることではありません。 むしろ、「ここから先は説明できない」という境界を、誰よりも早く、判断の前に固定し、記録することです。
不可知境界を「記録単位」として固定した瞬間にだけ、私たちは本当の意味で責任を負うことができるのです。



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